プロフィール

粕谷浩子

はじめまして。粕谷浩子です。
自己紹介をしようと思うと、あまりにも自分がとっちらかっていて、
肩書も曖昧だし、居住地も転々としていてるし、何をしている…の説明もしにくいし、なんとまぁ「わやくちゃ」な人生でしょう。

目次

プロフィール

【名前】 粕谷浩子(かすやひろこ)
【生年月日】 1972年5月9日 52歳
【出身地】 香川県善通寺市
  でも育った場所は転々としていて、父が転勤族だったので、鳥取県、北海道 札幌市函館市、
静岡県、埼玉県、新潟県…と色んな場所で幼少期を過ごしています。
【趣味・特技】今は、おばあちゃんナンパ、バスの中でもお風呂でも、どんなトコでもおしゃべりします
地味に長く続いているのは、読書。この10年くらいは老眼でぐぐっと読書量が減りましたが、
 40歳くらいまでは1日1冊ペースで物語ばかり読んでプライベート時間を過ごしていました。
【職業】 コレが一番、説明しにくいのですが、お雑煮研究家でもあり、なんじゃこりゃハンターでも
あり、コンサルタントでもあり…自分でもよくわかりません。
  仕事にはあまり長期展望がなく、意識して「流されていく」ことを志向してます。(基本頑固なんで、
  興味のないことにはどーせ流されもしないんで)
  その時出会ったものから始まっていく方式で、職業そのものはどーでもいいや、な感じですw
【出版物】 『地元に行って、作って、食べた日本全国お雑煮レシピ(池田書店)』
   『お雑煮マニアックス(プレジデント社)』『青パパイヤのレシピ(池田書店)』

【出演メディア】 お雑煮に関しては、毎年年末年始にはアレコレ出ています。
  「マツコの知らない世界」「THE TIME」「グッドモーニング」等多数。

今の粕谷の暮らしぶり

粕谷浩子

今の粕谷は、根無し草みたいに、住むところも転々、オシゴトも転々。
「雑煮調査のため」なんて言ってはいるけど、
ホントのとこ、こういう暮らし方が快適だからなのかもしれないww

もともと、粕谷は幼少期から父親の仕事の関係で全国各地で育ってきました。「転校生」な幼少期を過ごしてました。その過程で、ご当地雑煮の多様性も身近で知ることになったんですけどね。
ま、そういうわけで、自分が住む場所やら家やらに執着がなく、見知らぬ土地に単身飛び込むことにも、あまり抵抗がないのかな、と思います。

今は、以前のような雑煮レトルトのメーカー機能をやめちゃったので、移動も自由にできるようになり、
東京を拠点にする必要がなくなり、2020年には福岡県筑紫野市に住まいを移して、そこを拠点に九州中ぐるぐる回って雑煮調べを始めました。福岡の後は、関西・北陸だな!と滋賀県長浜市に住まいを移動。特に餅のカタチが四角と丸の切り替わりどころの関ケ原近くに住みたかったんですよね。
そして、東北では山形市、今年の4月からは、更に北上して北海道旭川市に住まいを変えて今に至る、です。
まだ旭川の冬を経験してないので、マイナス15℃とか20℃の世界をこれから経験するのがかなり楽しみ。
たぶん、旭川での生活も2025年の春までです。

住まいを転々とし始めた当初は、雑煮調べ以外の目的はなかったんですけど、色んな場所を巡っていると、やっぱり面白いものに出会っちまうものです。九州に住まいを変えた当初は、ちっとも考えてもいなかった『青パパイヤのレシピ』なんていう本を出すようなことが起こっちゃうんですよね。コレは熊本県玉名で青パパイヤ農家さんに出会ったところから始まったお話で、そんな出会いが次々と起こっていくものなんですよ。滋賀では、無理を言ってやらせていただいた「押しかけ農業」で米作りを経験して、米に着目したり、全国でお雑煮の話を聴くナンバを繰り返していく「副産物」ってヤツですかね。各地で「なんじゃこりゃ~!」と叫びたくなるステキな出会いがあるわけです。

粕谷浩子

全国転々としていたら、そりゃあ、面白いモノにも出会っちまいますよねぇ。

あぁ、日本の郷土文化って面白い。ステキななんじゃこりゃが溢れてる。これからもどんどんなんじゃこりゃに出会いたい。こんな面白いもの知ってるよ!という方、是非粕谷に教えてくださいませ!

先のことはわからないけれど、もうちょっとこんな好奇心と共に暮らす生活を続けてみようかな、と思っている今現在の粕谷です。

粕谷浩子

「プロフィール」欄ですけど、以下は、ダラダラ書き綴ってるだけなので、たいしたプロフィールではなく雑文だから、単に粕谷のプロフィールを知りたいヒトは読む必要ない内容ですよ(笑)

粕谷のこれまで

ちびっこ時代

子供の頃から、本ばかり読んでました。

いわゆる文学少女。絵本の記憶はあまりないのだけど(きっと弟二人がいて忙しかった母は絵本を読み聞かす時間があまりなかったのかも(笑)。6歳まではテレビに子守りをしてもらっていた、と母が言っていますwww)、7歳の誕生日プレゼントにもらった「ヘレンケラー」と「エレン物語」でモジの世界にハマり込んでしまい、以来、ちびっこの粕谷は、モジから広がる「ひとり完結の物語の世界」に夢中になってしまいました。飽きもせず、毎日毎日新しい物語を求めて、物語が私の世界の一部になっていました。

・・・というと、夢見がちな少女でインドアな幼少期を過ごしていたようですが、ちっともそういうわけでもなく、弟たちと「秘密基地づくりだ!」と木に登って遊んだり、小学生時代はバレーボールの全国大会出場とか、飛んだり跳ねたりのオテンバ女子でした。中学時代は、上越で中三の一学期の夏まで過ごしましたが、そこでは陸上部。
高校は東京都内の都立高校 石神井高校では、男子の中で紅一点で柔道部に所属してました。(途中でバセドウ氏病で運動が出来なくなって辞めちゃいましたが。)

こんな具合で、昼間は目いっぱい体育会系な女子でしたが、毎日欠かさず物語を一冊読みあげるまでは眠らない・・・というような、どう言えば良いのでしょ?生活の一部に「物語を読む時間」が欠かさずあって、キチガイじみた読書癖と共にその後の30年が続きます。

父が転勤族でしたから、子供時代は転校がとても多くて、2年~3年ごとにお引越し、当然ながら仲良くなった同級生ともバイバイを繰り返していたわけですが、私はどこか淡々としたところがあって、環境が変わっても常に物語の世界が一体化している私には、さよならではなく「続き」があるような、不思議な感覚がありました。
今も住む場所を変えることに抵抗が全くないのは、子供時代からずっとこんな生活を送ってきたからなのかな、とも思います。

流れ流れて、の社会人生活 よくわからないキャリア

一回目の大学卒業後の新卒入社した会社は、ロイヤルコスモという訪問販売会社でした。
一年浪人してるので、1996年4月のことです。
実は、当時、私はまだ就職したくなくて、東南アジアのタイに恋焦がれてました。大学時代にタイにハマり込んでいて、この暑い国で、のんびりダラリと暮らしながら、Tシャツすらアイロンをぴしっとかけるような不思議なアンバランス感覚をお持ちのタイ人の気質に惹かれ、このまま私、タイで生活をしたい・・・と、どうにか日本から出れる方法はないか、と考えていました。

そうやってダラダラと就職しない方法を考えていたものの、当時はバブル崩壊後の超就職氷河期。タイに住んだところでどう生活を成り立たせたらよいかもわからない、しゃーない、就職活動をしなきゃいけないか・・・と重い腰をあげて就職活動を始めてみたら、受ける企業ことごとく見事に落とされまくる!特に際立った能力があるわけでもない私は、誰からも必要とされないものなんだなぁ、サラリーマンらしき人や、OLらしき人を見るたびに、ワタシと彼らはどう違うのかしら?「社会人」になるのって難しいのね、あぁ困ったな、と意気消沈、茫然としました。
そんな時、大学の就職課の求人票を見たらそこに、「タイ語堪能な方歓迎」という文字を発見!
私はタイ語堪能では全くなかったけれども、学生時代は、年間の1/4はタイに行ってアソビまくっていたので、多少はタイ語はわかる。ならばどうか!とハッタリかまして応募してみたのである。

実際のところは、その会社がちょうどタイに現地法人を作ろうとしていた時だった、というだけで、その後私はちっともタイに関わる仕事は出来なくて思いっきりガッカリしたのだけど、入社だけは出来てしまったのである。
そして、思いがけず、この会社が私には居心地が良い会社だったのである。

当時はジャスコ(イオン)グループではあったけれど、いわゆるマルチ商法の会社だった。マルチ商法、と言葉だけ見ると怪しげではあるけれど、会社としてはなかなか優良な、生真面目な会社だったと今も思う。
そこで、まずは販売員さん向けの販売促進物の制作を担当することになり、毎月発行する広報紙を作るようになった。販売員さんたちの昇格の記事や、イベント報告、商品説明など基本決まりきった構成の広報紙だったけれど、ちびっこの頃から活字キチガイの私には、こういう編集の仕事が非常に面白かった。そのうち、販社のヒトをクローズアップする訪問取材企画などを始めたり、入社時にはタイに行けないならどうでもいいや、と思いっきり「腰掛け」気分だった私がシゴトに面白みを感じ始めてしまったのである。

あと、果物の皮むきがとっても上手になった!(笑)
お客さんが多い会社で、女子社員がお茶だしといただきものを配る役をする古い体質の会社だったので、いただきものの果物の皮むきが本当に多かったのである。実家暮らしで、全く料理をすることもなかった、包丁を触ることもなかった私が、果物の皮むきをひたすらやって、そこに情熱を注いでいたのが入社一年目の粕谷だったのであるww
ついでに言うと、こんなに毎日お茶くみをするならば、自分なりに徹底的にそれを楽しみたくなって、「煎茶」と「紅茶」と「コーヒー」についてカルチャー教室に通いながら勉強を始めた。もともとが活字オンナだから、関連する書籍もどれだけ読んだだろう。日々のお茶くみでそれが活きたとはあんまり思えないけれど(笑)、私には10時と3時のお茶くみ時間が何倍も楽しくなった。そして、今も続いている趣味が、家でのコーヒー抽出タイムなのだけど、確実にきっかけは、この会社員時代。

粕谷浩子

今、お雑煮の教室やったり、趣味が家での料理!なんて言ってるけど、りんごの皮むきも出来ない粕谷だったんですよねぇ。実家では何もしてこなかった。本当にあの時お茶くみやら果物の皮むきの仕事が出来て良かったなぁーと思うんです。いまどきの会社ではこんなこと女子社員の仕事じゃないんでしょうけど(笑)

キャリアの話を書こうとしたのに、果物の皮むきやお茶くみの話って何だ!・・・であるが、私のキャリアは一事が万事こんな具合。出会ったシゴトやヒトから始まる「楽しみ発見」の延長が、キャリアや暮らしぶりに繋がる。イヤだったら、きっと、さっさと辞めて「次、行こ!」となる淡白な性格だけど、「どうせなら楽しもう」が基本で、夢中になったら深堀りするっていう流れなので、どこに向かって行こうとしているのか自分でもまるでわからない。強い意志で流れに立ち向かったり、緩やかな流れを軌道修正しようと抗ったりするわけでもないので、進む方向性は決まらないし決めようともしていなかったりする。

中小企業診断士の資格とっちゃった

そんなこんなで、妙に居心地が良かった新卒入社した会社で、たいしたキャリア願望もなく、このままずっと勤め続けていくのかなぁ、「退職する時は、長期旅行したくなったときかな!」と思っていた粕谷が、会社員生活を辞めて、不意に独立開業することになってしまったのです。新卒入社して、4年10か月の頃でした。

独立願望があったわけでもないのに、なんでそうなってしまったのか、というと『中小企業診断士』という資格に合格したからなのです。この資格を取ることにしたのも、ある時突然、思いついちゃったからです。
当時は、通勤にお茶の水駅で乗り換えて、飯田橋駅で有楽町線に乗り換えるというルートをとっていたんですが、その時乗っていた電車の中吊り広告で、中小企業診断士という資格が出ていたです。新卒入社して3年目の時のことでした。何だか妙にこの資格の名前が気になってしまい、お茶の水駅で乗り換えるのではなく、下車して書店に駆け込んでどんな資格なのかを立ち読みで調べ始めてしまったんです。(当時はインターネットは始まっていたけれどまだスマホがない時でしたから、調べたかったら書籍だったんですよね)
そして、立ち読みしていたら、私の日々の仕事で疑問に思っていたことを理解できる内容の資格のような気がしたんです。思い立ったらすぐに動いてしまいたい性格でもあり、その足で、お茶の水駅にある某資格専門学校を訪問して、週末ごとに開催されるカリキュラムのスクールに申し込むことを決めてしまったのです。
スクール費用は、当時30万円くらいで、社会人三年目の自分にはちょっと大きい額ではありましたけど、えいっと即決。その日のうちに決めてしまった。

勉強を始めてみたら、なんか場違い感半端なく、グループ学習のメンバーの方たちと自分があまりにもレベルが違い過ぎて笑えるくらい。項目ごとのテストの順位が貼りだされるようなシステムをとっているスクールだったので、他の仲間と比べて、50人中ビリかピリから2番・・・と自分の成績の悪さを見るにつけ萎えるばかり。でも、自分的にはこんなにも勉強したのは初めてじゃないか、というくらい勉強はしました。働きながらですから、毎朝、始業より一時間早く家を出て、会社近くのドトールで1時間勉強して、夜は仕事が終わってからまっすぐ家に帰らず、家の一駅手前の駅のファミレスで2時間勉強。そんな生活でした。頑張ったかいがあり、結果的には、スクールのグループメンバーの中でひとりだけ、一次・二次試験ストレートで合格できたんです。自分が一番驚いたw

粕谷浩子

実はかなり負けず嫌いですw
「ダメでもともと。でもやるっっ!出来るまでやるっっ!」の猪突猛進タイプです(笑)

別に資格がとれたからといってすぐに独立、なんて全然考えていなかったのに、何故独立開業することになってしまっかというと、今はこういう仕組みではなくなっていますけど、当時は、二次試験に合格したら、三次実習というものがあって、1月に約2週間、会社を休んで実習に参加しなければいけない仕組みがあったのです、当時の中小企業診断士資格には。

当然会社には、ストレート合格したから、有給休暇をとってお休みさせてください、とお願いしたのですが、一度は良いと言ってもらえたのですが、業務の関係で休めなくなってしまったんです。年に一回しかその実習は受けられないので、次は来年になってしまうんですね。会社からは来年は必ず参加できるようにすると言っていただいたんですが、私はその時決めたんです。来年は、会社を辞めて自分で実習に参加する!と。私はとても頑固なので、一年前に退職届をだして、退職までは全力で働く、そして辞める、と宣言して実際にそうしちゃった、という・・・。

ま、こういうわけで、自分でも全く考えていなかった方向に進むことになってしまったんですよね。「独立」とか「開業」「起業」とかとは無縁の人間だと自分では思っていたのに、不意に(笑)

今思えば、そのまま三次実習に参加できていたら、居心地が良かったので会社員生活を割と長く続けていたような気がするので、その時が転機だったんだろうなぁと思います。

未経験のOLが中小企業診断士で開業しちゃった

初めは本当に困りました。
普通の会社員で、会社でも役付けがあったわけでもない平社員の28歳女子が、突然、独立開業ですよ。しかも、とりたてホヤホヤの中小企業診断士、経営コンサルタントとして、ですからねぇ。普通に笑える状況です。
「食えないから止めとけ」という言葉しか聞かなかったですからねぇ。

そういう場合、選択する道としては、誰か先輩の先生にくっついてかばん持ち的に、コンサルタントとしての仕事を学ぶ方法もあったんですよね。でも、「それだけはない」というのが粕谷でもあるんですよね。当時、全く未知の世界に飛び込んだにもかかわらず、初めから誰かのやり方に倣うのはどーしてもイヤだったんですよ。

失敗するなら失敗しても良いから、ゼロからチャレンジしたい。ダメだったら、また就職活動すりゃいいじゃん!と思ってました。

とはいえ、全くの未知の世界で、そもそも「コンサルタント」って何をするの?「中小企業診断士」の勉強はしたけれど、「中小企業診断士の働き方」ってどうやるの??状態ですよ。どうやったらオシゴトをゲットできるのかもわからない。。。既に中小企業診断士として仕事をしていらっしゃった先輩の方々からたくさん飲み会でお話は聞いたり、事務局のお手伝いはしましたが、どう考えてもキャリアが違うんですよね。20代の女子で、部下を持ったこともないぺーぺー、しかも業界も特殊な業界(訪問販売会社)ですからねぇ、当時一番困った質問が、「得意分野は何ですか?」ですよ。

いや、何もないですから!

マーケティング?・・・しゃーないから、そう言ってみましたけど、私の経験してきた業界のマーケティングがそのまま活きることなんてないし、話を聞けば聞くほど、コンサルとして私が出来ることなんて、ひとつも浮かばなかったですからねぇ。

あと、当時は20代女性の診断士がひじょーに少なかったので、「若い女性の視点で」ってこともよく言われたんですね。・・・でも、自分を振り返ってみると、ワタシ、「若い女性の視点」ってヤツ、持ってる???
一般的な女性視点って一体なんなのさー!!ってのが本音で、そういう視点を私が持ってるようには全く思えない。

まぁ、本当に困りました。

すぐに出来そうなこととしたら、中小企業診断士スクールの講師っていうものでしたが、一回だけ単発でやってみたんですが、これをすることが私に向いてるか?と言ったら、全く興味が持てなかったんですよね。そもそも、私の勉強の仕方はかなり特殊なやり方をしていたので、学ぼうとしている人に参考になるとも思えなかったし。

幸いにも、独立するにあたって、元いた会社から顧問?契約をしてもらったんですよね。週に一回元いた会社に行って仕事をさせてもらいました。だから、無収入ではなくスタートは出来たわけです。だから、わからないなりに、開き直ってイチからやってみよう!と若いんだしコンサルの先生的ではなく、業界のことを教えてもらって、知らないことばかりの中で、「なんで?」と自分が疑問に思うことに自分なりに突っ込んでみよう、と動き始めてみたんです。

今思えば、「何もない」ということこそが私の強みだったなー、と。キャリアがないから変なプライドもなく、わからないところから純粋に考えることが出来た、それがかえってクライアントからしてみたら新鮮な発想だった。業界ルールを知らないから、疑問がたくさん湧いてくる。ルールなんて知らない方がアイディア生まれるもんですしね。

この時期は、本当に色んな出来事がありすぎて、書いていたら途方もなく長くなってしまうので、はしょります!(笑)

未経験粕谷、たくさんの失敗がありながら、なんとかやれた、ってことです。

粕谷浩子

ホント、山あり谷あり、色んな出来事があった28歳からの8年間でしたねぇ。とても書けないことも一杯!(笑)
たぶん、プロフィールに書くことはないので、知りたかったら、直接聞いてくださいwww ハチャメチャです。。

36歳で短大受験。仕事を完全離れ、2年間女子栄養大学短大生になった!

前の項で、書くのが飽きてしまってw、大幅にはしょりましたが、大失敗やったり、再始動したり色々経て、まぁよく働いたのです、粕谷。とってもよく働いたから、休みたくなりました

休むんなら、学生をもう一度やろう!と思いついてしまいました。
その時に何を学びたいのか考えて、これしかない、と思ったのは、「カラダと食べ物の関係を知りたい」ということでした。

私は20代の学生時代は、国際関係学部国際文化学科で、東南アジア、特にタイのことばかり見てた思いっきり文系人間です。
食いしん坊の私は食べ物をこよなく愛していますが、カラダに食べ物が入ってきて、どんな風に作用してカラダを動かしているのか、形成しているのか、ちっとも理解できません。「化学反応」が少しも理解できないんです。

その癖、当時流行っていた、健康番組の数々で「○○が良い!」という言葉をそのまま受け取るのがどうしてもイヤ!、というちょっとメンドクサイ気質。なんで良いのか、自分の頭でちゃんと理解したい、「本当」を自分で探るための基礎知識を身につけときたい、自分で知りたいことを調べるにも最低限の化学の知識がなくてはわかんないなー、と思ったんです。
卒業するとすぐに39歳になるような年齢だし、栄養学を学んでも「栄養士」としての働き方を目指したりもしないだろうな、とも思っていました。だけど、興味がある!食べることが大好きだし、カラダが食によって作られていく、乱されてもいく、という摩訶不思議な世界をもっと知ることが出来たら、きっと毎日の生活が楽しくなるはず!・・・そんな、ただ興味に引かれて、女子栄養大学短期大学部の受験をすることにしたんです。

昼間の学生ですから、オシゴトは当然お休み!

粕谷浩子

当時、社会人学生、と言ったら、一回大学は出ているので「大学院」に行くの?とよく言われたんですよね。MBA流行ってましたしね。
「違うの、短大!」と言ったら、???な顔をされました(笑)

社会人入学しようとする学生たちは、基本とってもマジメです。自分のお金と時間を2年間も費やすのですから、皆さんよく勉強します。そんなクラスメイトや、歳がちょうど半分の18、9歳の同窓生とともに、2度目の学生時代を過ごしました。

キャリアアップとかキャリア転換とかを目的としていない私は、この2年間は、とにかく自分の興味に向かってとことん楽しむことが全てでした。栄養学やら生化学、生理学とかを学びたい!という強い欲求はありましたが、良い成績をとることも、栄養士資格を取得することも、正直どうでもよく、卒業した後に、何か知りたいことが出来た時にちゃんと自分の頭で理解し、探し出していけるようになりたい、という点さえ実現できたら万事OKと思っていました。

だから、ある種不真面目。
女子栄養短大は、授業のたびに小テストがあるような学校で、まるで受験を控えた高校生のようになかなか日々の勉強に忙しい短大でしたが、私はテストは単位を落とさない程度でいいや、というスタンスですから、テキトーな感じだったかもしれません。でも、授業の内容はとても面白かった!今も心から、この短大の2年間は私にとって貴重な2年間だったなぁ、あの時の「休みたい」=「学生をやる」の思いつき行動は、結果大正解だったなぁと思っています。

この2年間に私がチカラを入れてやっていたことは、またしても①図書館で栄養やらカラダの本をたくさん読む、②食べ物の中でも何かテーマをひとつ決めてそれを調べる、ということでした。

私が食のテーマとして決めたのが、そう、「お雑煮」でした。子供の頃から大体2年ごとに転勤がある父と共に、あちこち住まいを変える暮らしでしたから、行く先々で友達たちが食べている雑煮が全然違うことはよく知っていました。面白いよな、とは思っていました。でも、それを徹底的に調べよう!なんて、なかなか忙しく仕事をしている中ではやりにくいことでもありました。だけど、私は学生なんですもん。別に短大では卒論も必要ないし、栄養学とは関係はないけれど、自分で勝手にテーマを決めてとことん研究するのは良いじゃない?学生ちっくじゃんねぇ。
成績は単位が取れる程度で良いけれど、2年間の学生時間の最高の思い出になるくらい、調べてみよう!きっと楽しいはず!と、まずは基礎知識として、農文協の「聞き書シリーズ」47都道府県を全部読むことから始めて、ことあるごとにどんな雑煮を食べているのか人に聞く、ということをスタートしたのです。

これが今の私のお雑煮専門家としてのベースです。

短大卒業して、また一からオシゴト始め!

私の短大卒業の年は、大変な年でした。2011年3月・・・東日本大震災が起こった年でした。
3.11のせいで、楽しみにしていた短大の卒業式もなくなり、クラスメイトとも最後に会うことも出来ないまま卒業となりました。

仕事も、入学以前と同じ仕事をしたいとも思っていなかった私は、それまで自分には合わないなぁと避けていた、公的機関の仕事に試しにチャレンジしてみよう!と、ダメモトで中小企業基盤整備機構のプロジェクトマネージャーの仕事に応募してみました。応募書類に記載する内容が過去3年間の実績を書かなくてはならなくて、2年間学生していたので全くの空白の2年間をどうしよう、1年分しか実績書けないじゃん・・・と苦笑しながら書いた記憶があります(笑)
ちょうど応募してそろそろ結果連絡が来るだろう時期に3.11が起こり、全く採用連絡がなかったので、「あ、やっぱ落ちたな」と思っていた頃に、連絡が入り、私は中小基盤整備機構の農商工連携・地域資源活用事業の埼玉県担当のチーフアドバイザーに着任することになりました。

短大入学以前は、中小企業支援はやってはいましたが、食に関係する仕事はほとんどやったことはなかったのですが、この仕事は「食」が中心にありました。

初めはどの分野も知識がゼロで、支援企業が製粉会社ならば、ひたすら色々な小麦粉を使ってパンを焼いてみたり、酒蔵があれば、自分の家で麹づくりにチャレンジしてみたり(失敗して出来なかったw)、豆腐製造業があれば、様々な豆を取り寄せて比較しながら豆腐を自作してみたり、そんな仕事とは直接関係はなく、やらなくても良いようなことをプライベートでもやったり、学んだり、果てしなく無駄が多いw楽しい時間に没頭しました。

卒業ホヤホヤだったこともあり、女子栄養大の先生たちにも、本当に頻繁に商品開発や試作の知恵を得るべくご相談に行ったりもしました。社会人入学→卒業生の役得ですね!

スタートしたばかりの頃はあまりの自分の無知さに、うんざりし、どうしたら皆さんの役に立てるのかと悩みましたが、この仕事でステキな社長たちにたくさん出会え、埼玉県の豊かな資源や産業なども知り、本当にオモシロイ仕事でした。

そんなこんなしてるうちに、また次のステージが不意に訪れるのです。

突然、創業支援センターのセンター長をやることになっちゃった

またしても、「らしくないこと」をやることになってしまったのです。
品川区立武蔵小山創業支援センターのセンター長。

どう考えても、粕谷には不向きなシゴトだと思いました。
基本、マネージメントが非常に不得意な、ふらふら自由きままを愛する人間です。縛られることが何よりキライ。
「長」がつくようなオシゴトは、なんだかエラソーでお尻がかゆくなりそう。
服装だって「ジャケット」を着たり「パンプス」を履くのは嫌だなぁ、お化粧も普段はしたくないなぁ、ってタイプです。
それに、何でも無造作な抜け抜け人間ですから、絶対不用意な発言をしちゃうぞ、、、
区立のセンター長なんだから、そういう立ち位置を求められるぞ、、、
しかも創業支援、、、(特に女性起業に特化した)

話が来た時には、まず、「絶対ムリ!」と思いました。
「不向き」「不向き!」「不向きっ!!」と。

特に、このセンターは年間100回以上のセミナーを開催するセンターで、
自分がセミナーに参加するのも、講師をすることも苦手としていたこともあり、
初めは、何故私にこんな話が振られるのか理解不能でした。

でも、私の悪い癖が始まってしまったのです。
「やったことがないこと」「無理そうなこと」「初めてのこと」
こういうことにチャレンジするのが好きなんですね。

普段やり慣れていないことに配慮する生活はきっと苦行になるだろう、と予測しながらも、飛び込んでしまったのです。

マネジメントが大変苦手な私なので、スタッフたちには大変迷惑をかけてしまったと思いますが、
飛び込んでみたら、創業支援、起業支援というのはとても面白く奥深いものだったのです。
何かを起こしていこう!という意欲がある人たちにはパワーがあり、強い想いがあり、そんな人たちを応援する仕事に夢中になりました。何が私に出来るのだろう?と1日中、ご相談者さまやセミナー参加者さまのことが頭から離れない日々が始まりました。きついことはたくさんありましたが、大変良い経験をさせてもらったなぁと思います。

特に女性起業に特化したセンターだったので、スモールビジネスが多く、
ニーズよりもウォンツにフォーカスした事業も多く、目からうろこ的に、発想の転換を感じることが多かった期間にもなりました。小さな子供を両手につないで、ご相談に見える方もいたりして、一生懸命さ、強いパワーを感じて私も頑張らなきゃ!と気が引き締まったものです。

起業支援する側から、一転、起業する側に変身してみた!(笑)

結構、驚かれたものです。当時。
創業支援センター長だった私は、職を辞して、起業する側に変身してしまいました。
「みいら取りがみいら!」とよく言われたものですww

しかも、こういう起業はイケナイよ、よく考えて!と自ら言っていたことを、
そのまんま悪い事業見本例のように始めたのが(笑)、お雑煮やさん、でした。
(続く・・・)疲れたから後日。

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