矢田部先生のこと

去年のNHKの朝ドラ、「らんまん」。
モデルの牧野富太郎を演ずる主人公の万太郎に対する植物学創成期の権威でもあった田邊教授の姿をほぉ。。。と思いいれたっぷりに観ていた。
この田邊教授のモデルが、矢田部良吉さんという方なのだが、
私にとっての大学時代の恩師は、この矢田部良吉さんのお孫さんだったのだ。

当時、先生から、お父さんもお祖父さんも有名な学者だった、と聞いてはいたけれど、
へぇーお祖父さんは植物学の創成期の立役者だったのかぁ、とドラマで初めて知った。
ただ、私の知っている孫の矢田部先生は、権威というものを何よりも嫌っている人だったので、
ドラマの中で描かれている田邊教授の雰囲気とは真逆。

学生時代、週に一回は必ず、先生たちと東武東上線霞が関駅のおらんだ屋敷という居酒屋で飲んでいた。矢田部先生の平日用のアパートが霞が関にあったのである。
先生がご家族と住むご自宅は練馬区だったけれど、大学が東松山校舎で遠かったこともあるのだろう、先生は平日用のアパートを借りていたのだ。
毎週木曜日だったな。自主ゼミが終わったら霞が関まで移動しておらんだ屋敷で飲んだ後、矢田部先生の部屋にみんなで移動して、とにかくダラダラと話しながら飲む。終電なんてとうになくなり、学生の中にはそのまま先生の部屋で泊まる人もいたけれど、私は、もう一人の先生である竹田先生が帰る時に、タクシーに同乗させてもらって、当時住んでいた和光市の自宅近くで降ろして貰って家に帰っていた。
娘の帰宅時間に非常にうるさかった父が、玄関前に仁王立ちして待っていることもあったり、私の両親には「なんて教師だ、女子学生をこんなに遅い時間まで残しておくとは!」と大不興だったわけだが、私にとっては、どんなに両親に叱られても毎週参加したい飲み会だったりしたのだ。

単位に全くならない「自主ゼミ」という制度が、私の在学していた大東文化大学の教養課程にはあった。
「自主ゼミ」という名前の通り、学生も自主的だが、先生も自主的に開講しているもので、
言ってみりゃサークルみたいなものだった。
自主ゼミテーマは『笑いについて』。
「笑い」について、学問的に?考える、という内容で、
担当教授は、フランス文学の竹田宏先生と、心理学の矢田部順吉先生だった。

別に「笑い」に関心がすごく高かったわけでもなかった粕谷が何故このゼミに参加することになったのか、
今では理由も思い出せないけれど、一浪しても志望大学の東京外大に落ちてしまって、
失意の状態で入学した大東文化大学で、なんか意味がありそうなことがやりたくて、3年生から始まるゼミなんて待てなくて、一年生からゼミに参加できるんなら何でもいいや、と参加したのがこのゼミだった、ような気がする。うっすら覚えているようないないような。

ともあれ、私にとっては、大学時代に一番大きな影響を受けた先生が矢田部先生、であり、
当時から今に至るまで、矢田部先生との出会いや投げかけられた言葉が様々な私の判断基準になっているような気がする。

矢田部先生は、なんというか、立派なセンセイとはとても言えない、人格者でもなければ、色々問題のある先生でもあったように思う。亡くなったのは、私がまだ在学中の平成7年の3月(私の大学三年生の春休み)で、亡くなった時も色々よろしくない噂を残していたりもした。でも、それが何だと言うんだろう?
品行方正な良いヒトが良いセンセイだとは言えないでしょ?
私は好きだったし、同じ自主ゼミの学生たちもたぶんずっと忘れられない先生として心に残している存在なんじゃないかと思う。

なんというかハチャメチャなヒトで、学生とも真剣に喧嘩するし、権威を嫌っているヒトで、
メチャクチャ言うけれど、学生だからといって上からモノを言うヒトではなかった。
欠点も、弱さもあえて丸見えにしているようなところがあって、
私たちは学生だから良いけれど、こういう人が身内ならばかなりしんどい存在だろうなと当時も思ってた。

そんな先生だったのに、当時の私は、先生にすら発言がうまく出来なかった。
インプットばかりしていて、アウトプットというのが出来ずにいたというか。
気が狂ったように本ばかり読んでいて、自分の意見が言えないし、自信が持てないというか。
貯めこんで抱え込んでもやもやしている感じ?
語れない分、代替行動のように、単独でならば行動だけは起こしていた。何となく行きたいから、海外一人旅をしたり、同人雑誌を主宰したり。
当時の大学学部クラスメイトは、私のこと、おとなしい人だと思っていたんじゃないかな?普通にニコニコしていたと思うけど、なんだかいつも恥ずかしくてうまくしゃべれなかった気がする。

文学少女で、たくさんの物語の世界が常に私の世の中を感じるフィルターにあって、自分の意見とか視点とかをあまり信じていなかった。それは今も同様で、我が強いくせに、私はこう思うけどそれが正しいわけじゃないよね、他の視方がたくさんある中の one of themだよね、って感じ方が私の根底には強くあるようで、主張が得意じゃない。

でも、たぶん今はしっかり主張はしちゃってはいる(とは思う)。
それは、おそらく・・・だけど、矢田部先生との出会いがあったからだと思う。
語ったら、ちゃんと適切に異論反論を唱えてくれる存在、としてすごくセンセイを信頼していた。
正しくないことを言ってても、別にそれはいい、私がそう感じるんだから、と割り切ることが出来たような気がする。違う正しさと共に過ごしていけば良いよねぇって感じ。

矢田部先生が死ぬ前、亡くなるほんの1か月前ぐらいだったと思う。自分の近い死を公言していた先生が私に言った。
「粕谷、お前には珍しく死相が見える」と。
「はぁ~??!なんですか、ソレ。センセイと一緒にしないでください(苦笑)」
「しそうには色々あるぞ、思想とか」とセンセイは笑う。
「粕谷は教祖さまになるかもしれない、ということだ」
「私にカリスマ性は皆無ですよ、なんじゃソレww」
「他人から見た教祖さまなんてどうでも良い、他に影響を受け過ぎない強さとか頑固さを通り過ぎた思想みたいなもんがあるように見えるってこと」
「えぇ~??!」

自分の意見とか発言がうまく出来なくて、黙り込んでただ聴いているだけの21歳の私に、矢田部先生はそんなことを言ったのである。
亡くなった後、センセイが何故そんなことを遺言みたいに言ったのだろう?とよく考えた。
理由はよくわからなかったけど、自分が感じてたり考えたりすることが正しかろうと間違っていようと、one of themの自分の視点で口に出しても良いんだな、他人の評価とは全く無縁の、それこそ「思想」みたいなものと割り切れば過ごしやすくなるな、とは思えた。

何故か一話分だけ、ハードディスクの録画に去年の朝ドラ「らんまん」が残ってて、矢田部先生のことを思い出した。
30年も前の話だ。早いもんねぇ。つい昨日のことのような気がする。


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